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地名の由来
足高山周辺を「笹沖」といいます。今から四百年程前まで、この辺りは海でした
水島灘に抜ける藤戸海峡に浮かぶ小島、「足高山」はその昔、「沖津島」または「小竹島(笹島)」といわれており「笹沖」の地名は、小竹島(笹島)の沖に開発された新田ということに由来するといわれております。
足高山には備中式内社十八社1つ「足高神社」があり、社伝によれば第十代天皇「嵩神天皇」の時に勧請されたとあり、水島灘は潮流の激しい航海の難所で、帆を下げて通船したため、別名「帆下宮」といわれ、航海の守護神であります。現在では、国道2号線が東西に、古城池線が南北に通り、交通安全の守り神として崇められております。
さて、葦高学区の「葦」、足高山・足高神社の「足」との関わりはどうなのでしょう?ある文献によると「葦高神社」と書かれ、天保年間に「葦」という字を「足」と書くとあり、足高山も大昔、まわりは葦が生い茂っている原(葦原)であったのではないでしょうか。
「葦原の中つ国」「葦原の瑞穂の国」と、日本国の古称としていわれているように、足(葦)高山、足(葦)高神社を中心とした葦高学区、笹沖地区は、はるか古代からの歴史ロマンを感じる所です。
(参考文献・角川日本地名辞典)
つらしくらしのみちしるべ
むかし浪華(今の大阪)で手広く呉服屋を営む男がありました。信頼していた番頭の使い込みによって店はつぶれ、一家は離散という事になりました。男は西国で一旗あげんものと勇躍して備中路を下っていきました。倉敷笹沖付近にたどりついたころには、秋の日はもう暮れかけていました。ふと、そこへ建てられている道しるべが目に入りました。その道しるべには、「北くらし」「西つらし」と書いてありました。男はこれを読んではっと胸ふさがる思いがするのでした。西へ行けばつらい事ばかりあるぞ、北へ行けば目の前は真っ暗ぞ、と読まれたからでした。
希望も夢も、打ちひしがれ西国へ行く元気もすっかり失せてしまったのです。道ばたにへなへなと座り込みました。
男はやおら立ちあがりました。近くの足高山に登って首をつって死のうと覚悟を決めたのです。そのよろめく足元をじっと見つめていた一人の僧がいました。男が手ごろな松の枝を物色しはじめると声をかけました。
「おい、おい、死人を扱うのはわしの仕事じゃが、死ぬ前に話だけはしておけ。どういう理由があるのか聞かしてくれ。」男がそれまでの経過を話すと、僧は腹をかかえて笑いました。「そんなことで死のうなんて、ばかげたことじゃ。その道しるべの下を掘ってみることじゃ。」と、男は僧と連れ立って、道しるべにあともどりして探ってみると、落ち葉に埋もれていたが、「北くらしき」「西つらしま」と書いてありました。「人生もすべて同じこと、つらし(つらじま)の南には幸せを呼ぶ『ふくだ』というところもある。」と僧は男をさとしました。その後、この男は西国へ下って、みごとに成功しました。男はまた、ふたたび人が過ちをおかさぬようにと、「つらしま」を消して「連じま」に書き換えて、二代目の道しるべを建てました。これが今に伝わるものといいます。
(「倉敷の民話・伝説」参照)
笹沖商店街の誕生
笹沖地区に現在の商店街が形成されはじめたのが昭和三十年代後半、水島工業地帯の発展を背景に大企業の社宅・独身寮・団地・個人住宅が次々と建ち、古城池線が開通、国道二号線が笹沖交差点まで開通した時点でピークを迎え急激に市街化・商業化されていったのです。
ボーリング場・飲食店・結婚式場・スナック・電気店・スーパー・・・他、物販店・貸ビルが次々とオープンし、現在の商店街の基礎を作っていきました。
昭和四十年代後半の事です。それまで笹沖といえば、稲作、い草を中心とした農家ばかりでした。誠に不便な所で天城街道・大高街道まで出なければ、公共交通機関のない所だったのです。街(倉敷)まで行くには、吉岡両国橋から倉敷駅に通じる笹沖街道、一本の道のみでした。道幅も現在の半分強ぐらいだったのです。
 
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